小さな影が水面から沈んでいく。視界の隅で捉えたその違和感は、背筋を凍らすには十分なものだった。
「あなた!!」
砂浜から叫ぶ妻。その表情はランチの準備ができたことを告げるものではない。
息子と娘の3人で楽しんでいたビーチボール。息子のひどいアタックに笑いながら水中を泳いでボール取りに行くところだった。
娘の姿がない。
妻の叫びと混ざり合い、ようやく意味を理解した時にはコバルトブルーの海の底の広さに愕然とした。
「お父さん!」
息子が海面に指をさす。考える前に僕は潜った。沈む小さな指先に触れ、娘を息子の持つ浮き輪に託した瞬間、安堵と同時に僕は暗闇に沈んでいった。
心臓の鼓動が聞こえない。
目を覚ますと見たことない場所で僕は寝転んでいた。そこにいた小さな女の子が僕の目の前にしゃがみこむ。
「ここは一万種の湯を提供するお湯屋『天界』だよ。普段は人の目に触れる事はなく、瀕死の時にごく稀に迷い込む秘境に存在するんだ」
その子は見た目の年齢には似合わず、難しい言葉をすらすらと話した。
彼女に手を引かれ、お湯屋の中へと進む。番台には人とも神ともとれぬ者が座っていた。身体中に巻きつけられたお札が風に揺れている。
「今日はどこを治すんだい?」
「どこって。僕は溺れた娘を助けた途端にどうやら自分が沈んでしまったようなんです」
そう言うと番台が後ろの棚にびっしりと並んだ数千の木札の中から探して一枚をくれた。
「水抜きの札だ。お前は助ける。そこの扉を抜けて道をまっすぐ進むんだ。あの子達にはまだお前が必要だよ」
不思議な感覚に包まれたまま、案内された湯に浸かった。あまりの気持ち良さに眠ってしまいそうだ。
立ち上る湯気とともに意識がゆっくりと遠のいていった。
「あなた!あなた!」
僕は再び目を覚ました。砂浜から見上げる眩しい太陽を遮るように、家族三人が僕を見下ろして涙している意味が僕にはすぐに理解できなかった。